人間を n 種類に分類して、自分をグッドな方に配置する
これを繰り返して生きているのが人間なのだなあ、と思ってきた。 「こういうことする人っているよね」
「わかる〜!ほんと、やめてほしいよね〜」
というカジュアルな会話によって起きていることを整理してみると。
カテゴリ A に属する人間と、そうじゃない人間がいる
カテゴリ A に属する人間は、よろしくない
自分たちはカテゴリ A に属していない
自分たちはグッドである
自分たちはグッド、自分はグッド、と思わせてくれるのだとしたら、強烈な安心作用がありそうだ。不安に苛まれていたり、極端に自信がなかったりすると、この手の安心作用に引き込まれて依存してしまうことにもなりそう。
自分はしばしばこういう安心の獲得をやっていると思う。その様子は、他者から見ると滑稽に見えているのかな。
最近は「自分は自分なので」という自我がだいぶはっきりしてきたので、生きていて不安を感じることも少なくなっており、この手のインスタントな安心供給に頼る機会は減ってきていると自分では思う。自我がはっきりしてきた、とようやく言えているのが 40 歳になってからなのでだいぶ時間を要した。
十数年前だと「マジックテープ式のお財布を使っているとダサい」みたいな言説にすら心の平穏を脅かされていた。今はさすがに、この手の雑な攻撃からダメージを受けることはなくなってきた。「チー牛」や「4℃」など、特定商品の消費者を攻撃してなにかを得ようとする行為には、ただただ「ろくでもないな」と思うようになった。 …メタに見てみると、「チー牛」などの語彙を積極的に用いる人々と、そうではない自分たち、という分類をやっていて、やっぱり自分はグッドであると思い込もうとしている。そうであれば「せめて、マシと思える分類でやっていく」しかないのか?
分類に「生まれたときに決まるやつ」「身体的な特徴で、本人の行動ではどうにもならないやつ」を持ち出すのは不安が進行しまくっていてやばいんじゃないかと感じる。具体的には、国籍とか肌の色で人間を分類して、自分と異なるカテゴリに所属する人々を攻撃するやつね。自分が心の拠り所にできるのは、自分が生まれたときにたまたまゲットしたこれしかありません、ってことだとしたら心配だ。
これとインプレッション・エコノミーが悪魔合体すると、雑に人間を分類して、どっかのカテゴリを雑に攻撃して、賛成派も反対派も動員してインプレッションを荒稼ぎしてそれを収益に変える、が成立してしまうので手に負えない。歪な形の肯定を社会が与えてしまうことになるので、そこからはもう先鋭化するしかなくなる。